「社会」と「ヒーロー」について~アニメ『ガッチャマンクラウズ』から考える~

☆アニメ公式サイト
 ⇒ガッチャマンクラウズ|日本テレビ
 ⇒ガッチャマンクラウズインサイト|日本テレビ

  • ガッチャマンクラウズの魅力

ヒーローアニメであるにもかかわらず、「勧善懲悪」ではない点が、この作品の魅力だと感じています。「正義」と「悪」は立場により変化するものであり、「悪」をねじ伏せることが、必ずしも「正義」ではないと私も思います。
この作品は、1期と2期の2シーズン放送されていますが、ともに、暴力ではなく協力による解決を得ています。これは、「勧善懲悪」に拘らないヒーローである主人公“一之瀬はじめ”無しに はたどり着けない結末です。彼女以外のメンバーは、一般的なイメージ通り、力を行使して敵を倒すヒーローですが、彼女は力による解決に拘らず、最善の手段を模索していきます。
その結果、1期では黒幕“ベルク・カッツェ”を自身の体の中に取り込み、閉じ込めてしまいます。彼が享楽のために、争いを引き起こしていた諸悪の根源とも言うべき存在にあるにもかかわらず、彼女は討ち倒すのではなく、彼を否定することもなく、受け入れるという結末を選びました。
  • 「社会」と「異文化」

一般的に、自分と異なる存在は、不安を抱かせるために、攻撃・排除の対象となりがちです。その最たる例が人種差別といえるでしょう。
しかし、異文化を取り込むことは、社会の発展には非常に効果的です。歴史的な強大国を見てみれば、その事実は明確だといえます。ローマ帝国や大元ウルス(モンゴル民族による元王朝)は勝った土地の人々を滅ぼすのではなく、自分たちの国民にすることで、国力を上げ、発展していきました。また、アメリカ金融の発展は、ナチスドイツによる迫害から逃れたユダヤ人たちになしにはあり得ません。
こ のように、異文化を取り入れることが、社会を向上させていくためには不可欠だとしても、異文化が恐怖の対象となりうることは避けられません。それにもかか わらず、強く恐ろしい黒幕を滅ぼすのではなく、取り込むという選択をした主人公は、社会の模範であり、そういう面でもヒーローといえるでしょう。
  • 2期でのガッチャマン

また、2期では、人々が他力本願になり、総理大臣を務める宇宙人“ゲルサドラ”が独裁者と化します。雰囲気に流され、彼へ過激に非難する人々へ疑問を投げかけるた め、“一之瀬はじめ”は彼に扮して、仲間の猛攻に身を晒します。これも彼女の強さがあってこその作戦であり、この強さが力を振るわない彼女をヒーローたらしめているといえます。
彼女のおかげで、人々は“ゲルサドラ”への対応を改めて考える機会を得ます。2期のテーマは、この集団の中でも流されずに各々が考えることの大切さだったのだと思うのですが、私は社会が彼を排除しなかったという点にも注目したいです。
終盤、人々の「空気」が少数派を排除しようとする展開になります。これは前述の異文化に対する行動と同じだといえます。しかし、“一ノ瀬はじめ”の行動により、考える機会を得た社会は、騒動の中心にいた彼を排除しないという結末を選びました。1期の彼女と同じく、異文化を取り込むという選択、つまり、社会は発展へ進む道を選んだのです。
1期で「正義を貫くのではなく、模索していた“一ノ瀬はじめ”は、社会を導くヒーローとなったのです
  • 「正義」と「ヒーロー」、「社会」

ヒーローアニメは、『「暴力」により「正義」が「悪」を滅ぼす』という「勧善懲悪」な結末を迎えることが多いです。これは、『ヒーロー=人々を助ける「正義」の味方』、『「悪」=「正義」の敵』という考えの上にあると思います。つまり、「悪」という異文化を排除することで平和な社会を築くヒーローです。しかし、ヒーローという強い存在だからこそ、異文化を排除するのではなく、受け入れることが出来るのではないかと思います。真に人々を助ける存在は、助ける対 象を選ばず、「悪」と呼ばれるものも含む、すべてのために戦うべきではないのではないでしょうか。 「勧善懲悪」ではなく、「率先垂範」で社会の成長を促進させる『真の「正義」の味方』として、主人公の“一ノ瀬はじめ”を描いたことはこの作品の最大の魅力です。この彼女の行動から、異質なものとの関係について、考えていくことが社会のために必要だと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿